コラム「友情と尊敬」

第68回「フルーレ」 藤島 大

北京五輪、多くのテレビ視聴者にとっての日本選手の最大のインパクトは、意外にも金メダリストではなく銀メダリスト、フェンシングの男子フルーレ、太田雄貴の実績と個性ではなかったか。

スポーツ記者の昔からの言い伝えに「フェンシングと重量挙げの真剣勝負をじっくり現場で見ると実はおもしろい」がある。テレビではほとんど放映されず、されたとしてもダイジェストであることが多いのが、「実はおもしろい」のココロである。

太田雄貴の決勝、初めてフェンシングの試合を最初から最後まで眺めた人々も、間合いの妙、フランス語を公用とする貴族性、騎士や剣士の響きにもふさわしい凛々しさを感じられたはずだ。暗闇にそこだけ照らされ、ふいに間合いを詰める、あの美しさよ。

銀メダルの快挙、実は、ラグビーとも結びついている。つまり「接近プレー」である。

本人のコメントにもあった。

「フルーレは胴体の部分しか得点にならないので、腕の短い日本人にも活路がある」

エペ(全身)やサーブル(上半身全体)のように下半身や腕も攻防の対象となると、一般的には手足の長い西洋人の体型のほうが優位となる。しかし、体のいわば最も奥まったところにある胴体のみが有効面ならば、腕が長くとも短くとも「接近」の要素は少なからず求められる。そうであるなら日本人も戦える。懐に飛び込み、短い距離、狭いスペースでの俊敏性と巧緻性をいかせる。フルーレ決勝や準決勝の映像に、やっぱりジャパンもこれだよなあ…と、またまた思うのであった。

接近して、素早く動く。静止からの加速。トップスピードからの急停止。鋭く横に引いていきなりピッと止まる(相手はいきっぱなし)。突然、直進して吸い込まれるように相手の胴体に飛び込みボールをいかす(伝説の横井章!)。

ここに日本のラグビーのそれこそ活路はある。あらためて、太田雄貴という快活で聡明そうなメダリストのおかげで確かめられて、迷いを吹っ切れた。

もう百万回でも書き続けたい。

「日本のラグビーよ、接近プレーを捨てることなかれ」

現行のジャパンでは難しいかもしれない。前回も触れたが、違うアプローチで、ひとつずつ階段を上がっているのは事実であり、そのことは正当に評価しなくてはならない。

ただし、接近プレーを突き詰め、最先端のルールに合致するように創造する作業は、どこかの単独チームが試みるほかない。記憶に新しいのは、昨年度の花園の天理高校である。トップリーグは、相対的には戦力に恵まれぬチームにも外国人の強力なペネトレイターがいるため、突破についてはそこに頼ってしまう。だから、なかなか接近の開発に取り組む気運は盛んにならないが、なんとかプロらしく「日本オリジナル」へ挑んでほしい。

日本人・日本選手が、身体動作で、多様な民族を抱える南アフリカやニュージーランドを凌駕できるのは「接近」の領域を除けば他にない。あとは、走り動き続けるスタミナで一矢を報いることができるか。「接近」には短い間合いで鋭くヒットする能力も含まれる。

人間のたくさんいるスペース、相対的にひとりの受け持つ幅の狭いところを接近や方向転換で抜く研究を進める。それが日本ラグビーの生きる道である。もちろんラグビーはフルーレのみにあらず、エペでもある。重量級のレスリングにして(たまには)ボクシングですらある。そうかもしれない。でも、そればかり言っちゃおしまいだ。フルーレでは勝てたなら、そこから可能性を追う。そうでなければ永遠の追随者だ。

余談。太田貴雄は「お母さん」でなく「母」と言う。「大舞台」をちゃんと「だい…」でなしに「おおぶたい」と読む(古典芸能でなければ『だい』でもよいようだが、こちらのほうに古くからの響きがある)。テレビ局バラエティー番組の親子愛などの仕掛けに感じよく乗ってあげて、でも、きちんとベタつかぬよう距離をとっている。全国のラグビー少年、少女よ。有名になったら「はは」と「おおぶたい」でよろしくお願いします。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

過去のコラム