第93回「予期せぬ自分」
藤島 大
こういうたぐいのことを書く場ではないと分かってはいるけれど、現職の大臣が自分をあわれんで公的な場で泣いたり、原発政策など与党時代の責任を簡単に忘れて罵るばかりの野党議員を眺めていると、務め多きオトナの「小児性」がもはや切なくなる。
ことに政治の世界では「ゆがんだ自己愛」がのさばっている。右も左も上も下もみんなそうだ。自分と自分の身内ばかりがかわいくて、うまく立ち回りたくて、ほんの少しでも損をしたくない。いやですねえ。
だからラグビーなのだ。ラグビーであってほしい。ラグビーのように生きれば世の中はよくなると信じたい。
いま合宿に、炎天下の練習に、奮闘する若者たちよ。もう気づいているだろう。スポーツの、ことにラグビーの喜びの核心とは「他者から求められる瞬間」にある。
オマエのタックルはすごい。君のパスならうまく走れる。ミスをしてもあなたがカバーしてくれるので大胆になれる。そんなふうに他者に評価されると自分自身の内側は磨かれる。これが人生の充実なのである。
高校と大学のラグビー部コーチ時代、たまに選手に進路の相談をされた。いつもこう答えることにしていた。
「本当の自分なんてありはしない。いまの自分が自分なのだ」
なるほど「本当の自分」にふさわしい学校や仕事を探したくなるのは人情だ。みんなそうだった。しかし、それらは、どこかにあらかじめあるわけではない。あるのかもしれないがクッキリとはしていない。それよりも、仮にラグビーを続けたいなら、えいっと飛び込んでみる。オマエはタックルするのが仕事だ。そう他者に指示される。オマエのタックルはすごい。他者から自分が求められる。あるいはオマエのラグビーを見る目は優れている、と評価されて、映像分析や作戦構築の任務を与えられるかもしれない。
その時、予期せぬ能力に気づく。いま、その瞬間、自分のためだけでなく、チームのため、レギュラーが勝つため、損得抜きに没頭する。それこそが本当の自分自身なのだ。自分にピッタリの世界はどこかと情報を集めたり人脈をたどっても「思わぬ能力」は引き出されない。「自分こそが成功したい」という願いは活力を呼ぶが、そればかりだと共感を招かず仕事に深みは生じない。
ちなみに、もうひとつ進路をめぐって、よく話したのはこれ。
「ひとりでも尊敬できる人がそこにいたら勝利だ」
好きな人はよくいるが、尊敬できる人はあまりいない。本来、受験や就職の競争とは「尊敬できる人がいるところ」を求めてのみ派生すべきなのだとも思う。
ラグビーのポジションとルールと試合の構造は、その人らしさを明快に求める。献身に徹する不器用なプロップと利発で器用なハーフはまったくの補完関係にある。足が遅いのでタックルの標的になりやすいセンターだからこそ俊足のフルバックのライン参加がいきるような場合もある。
露骨な自己愛を忘れると、結果、自己を愛せるようになる。ラグビーはそのことを可能にする。他者のために心身を捧げれば、そのまま自分の価値を高めてくれるのだ。ここが個人種目や記録のスポーツ、あるいはポジションごとのプレーの似通った競技とは違う。
コーチをするにあたって思い出す言葉がある。これまでも何度かコラムに引いたが、それくらい忘れられない。昔、あるチームのある部員が言った。
「あの人は僕らを優勝させたいのではなく優勝監督になりたいのです」
他者はあなたを見抜く。だからこそ、あなたの知らないあなたの能力を引き出すのだ。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。