第99回「高麗大学」
藤島 大
韓国のラグビーは、時に、日本の鏡となる。思考のためのミラー。先日、ソウルの高麗大学が、姉妹関係の早稲田大学との定期戦のため来日した。雨中の一戦は、ホームから見て、92―10。つまり誇り高き高麗は大敗を喫した。
後日、高田馬場の庶民の焼き鳥屋で、キム・サンナム監督と杯を交わした。かつての韓国代表のセンター、ジャパンの元木由記雄を止める使命を担い、フルバックから転じたそうだ。それくらいディフェンスが強かった。
韓国の慶熙大学元プロップで筑波大学においてスポーツ史を研究している愛称「ビッグ・ジョン」が会話の通訳をしてくれた。ユニークな好漢にして巨漢、ビッグ・ジョンのことはいずれどこかで書くことになりそうなので今回はニックネームのままとしたい。
このコラムの筆者はまず「韓国の国内での対戦相手に早稲田のようなスタイルのチームはありますか?」と聞いた。「ありません。ワセダのように極端に速く展開するスタイルは存在しない」。青年と形容したくなる若々しい監督は即答した。
「であるなら、先日の大敗をあまり気にしないほうがよいのでは」
なぜ?
「公式戦では当たらない特殊なスタイルと戦い、そこでやられた領域を気にするとチームづくりの時間が足りなくなる。早稲田にどうやられたかより自分たちの強みを磨くべき」
早稲田がもっと軽量で、より極度の高速展開戦を仕掛けていたころ、日本国内でよくそのことを考えた。シーズンのターゲットのゲームで「高速展開型」と当たるのなら、春や夏に同型の相手と練習試合を組むのは道理にかなっている。しかし2部リーグの有力校が、昇格をめざす入れ替え戦では「パワー重視」のチームとぶつかりそうなのに、夏合宿でたとえば「早稲田B」戦を組むのはどうなのか。慣れぬ戦い方に振り回されて完敗を喫し、不毛な自信喪失に陥るのではないか。自分が早稲田のコーチをしている時も「わたしならワセダと練習試合を組まない」としばしば思った。
もちろん高麗と早稲田は定期戦なので、対戦そのものが尊い。異国の学生との交流には実利と別次元の価値がある。ただ「負けても気にしない」ことは大切ではないか。
しかしキム監督はこう言った。
「学生たちには国内のライバルを意識するだけでなく、高いレベル、世界をめざしてほしい」
ちょっと自分が小さく感じた。高麗の最大の目標は、古くからの好敵手、延世大学との対抗戦勝利にある。だから「必勝」のためには、異質な相手に負けても気にせず「打倒ヨンセ(延世)」に邁進すべき。日本のスポーツライターのほうがそう主張して、当事者は「理想」を語った。
半面、高麗の早稲田戦の前のウォームアップを見て、やや心配にもなった。あまりにも現代的なのだ。ポジションの別なくボールをつなぎ、ブレイクダウンを型通りにこしらえる。少しきれい過ぎる。海外のチームの薄っすらとしたコピー。「俺たちはここで勝負」という迫力がたちのぼらない。その印象は試合中もあまり変わらなかった(個々の身体能力は高い)。
唐突ながら、昨年のワールドカップでのフィジーを思い出した。たまたま同じホテルに滞在したのだが、ミーティングに使用した部屋のボードにこうあった。
「3C」。コミュニケーション。コンフィデンス。コントロール。
なんだか魂のないビジネス・コーチングみたいだ。こんなのフィジーじゃない。やはり精彩を欠いたまま敗退した。一言で表すと「フィジーらしくなく、さりとてモダンな潮流にも乗り切れていない」。中途半端だった(新しい体制では改善されつつある)。
このところの韓国ラグビー全般のイメージもそれに近い。勝負にかける執着が弱くなり、かといって海外理論導入の環境にもない。かつて日本も陥ったし、また常に陥る危険はある。高校や大学のチームでも「変えてはならぬ」と「変わるべき」の関係は同じだろう。
「相手がどちらがこわいかの追求」と「独善の愚かさ」はごく薄い壁に仕切られている。ラグビーは難しい。ソウルの一大イベント、9月の「高延戦」での朗報を待ちたい。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。