第106回「春に悩む主将へ」
藤島 大
監督とコーチが実質的にいない。いても忙しい。春、新チームの始動、悩めるキャプテンにささやかな助言を。
さまざまなチームの活動を観察してきて、いくつかの共通項が浮かぶ。以下、例を挙げる。
◎よいチームの練習は、始まりと終わりがはっきりしている。
ずいぶん昔、本コラムの筆者が、早稲田大学ラグビー部に入って驚いたのは、午後2時練習開始なら、授業を終えた部員は先にグラウンドへ集まり、各自でウォームアップをたっぷり行い、その時間ちょうどにキャプテンがコーナーフラッグにつるされた鉄笛をかすかな音で吹くと、全力ダッシュの何十人もが一瞬のうちに集まって、一言の訓示のあと、ただちに流れるような鍛練が始まることだった。
卒業してずいぶん時が過ぎて、1999年のワールドカップ、ウェールズ代表の練習を訪ねたら、当時のグラハム・ヘンリー監督がピッチ中央でピッと笛を鳴らすや、更衣のための小屋の中から選手たちが猛ダッシュで駆けてくるではないか。なんとスパイクの紐がほどけたままの者もいる。「あ。この人たちも同じなんだ」と思った。
サッカーの前日本代表監督の岡田武史さんは、かつて、低迷にあえいだ横浜F・マリノスの再建のために就任すると、まず練習場のベンチを撤去した。なぜ?とインタビューで聞いたら答えた。「ベンチがあると練習前も練習後もダラダラと選手たちが談笑する。あれが嫌いなんだ。」そのシーズン、F・マリノスはいきなり完全優勝を遂げた。
◎よくないチームの練習は「品評会」になる。
はい、これ15分、これ10分と、ドリルが次々に繰り出される。たいがいは、どこかから借りてきた方法だ。できていないのに次へ移行する。「私たちはこんなドリルを知っていますよ」というような練習=品評会。何ヶ月かが過ぎて、結局、何も身体化されていないと気づいても手遅れだ。
◎よいチームの練習は反復を憎まない。
ややできることがたくさんあるより、絶対にできることがひとつあるほうが強い。逃げ場のない小さいスペースでの1対1のタックル、あるいは相撲のような格闘を本当にくる日もくる日も何十回も続ける。その先にあるのが「これだけはできる」という自信だ。この考え方には、フィットネスも含まれる。具体的に懸垂の数が増えれば、それこそを体力と呼ぶ。
◎よいチームの練習は「そのことだけ」を問う。
いつか目撃した。ある中学生対象のクラブが、まっすぐ走ってパスをつかむドリルに取り組んでいる。前から防御役が軽く圧力をかける。それでも逃げず曲がらずまっすぐ走ってボールを受けて、外の仲間にパスを送る。あくまでも「まっすぐ」が焦点のはずだ。しかしコーチは、せっかく直進できたのに、そのあとのパスが乱れると、そちらを叱る。ここでは、パスをしくじっても「まっすぐ」ができていれば、それをほめればよいのだ。
◎勝つためには、目標の試合で起きないことは捨てる。
大半のチームにとって、ゴールと定める試合では、相手より、部員ひとりずつの体格、経験、運動能力に劣るはずだ。それでも勝利を追求するなら、まず時間に負けてはならない。何もかも手を出す余裕はない。象徴的に述べると、サイズとパワーに恵まれて強力な外国人留学生を擁するチームとこれからぶつかるとする。そのキックオフ前のウォームアップで、あなたのチームは、フロントローやロックまでが3対2のハンドリングのドリルを行うべきなのか? 試合ではそんな状況はないのでは? それよりもタックルに励むべきかもしれない。
◎よいチームの練習には「喜怒哀楽」がある。
真剣に取り組めば、感情的になる。喜ぶ。ほめる。尊敬する。怒る。口論する。悲嘆する。たまに涙する。楽しみ笑う。1時間の練習にすべての感情が表れる集団には活力がある。
最も大切なのは、キャプテンであるあなたとその仲間が「自分たちは何者か」を考え抜くことだ。その「自分たち」はなぜ楽でないラグビーを選んだのか。どうなることを目標としているのか。ターゲットの試合までの時間を緻密に計算して、できること、できそうなこと、できないことを峻別して、自分たちにふさわしい戦法を打ちたて、そこで求められる心技体をつくる。なんと知性的な行動だろう。うらやましい。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。