第115回「虚勢なきタックル」
藤島 大
断じて虚勢を要せず。そんな生き方を貫いた元日本代表のふたりが亡くなった。いつも、そのたびに思うのだが、魅力ある人の死は残された者の悲しみこそを想像させる。
井澤義明。享年67。現役時のラグビー記事では「井沢」だったから、こちらのほうがよいのかもしれない。井沢さんは、日本ラグビー史における最高のフランカーのひとりである。いまこうして書いていて「のひとり」を省く欲求になお抗えない。1968年のニュージーランド・ジュニア戦勝利、71年、対イングランド惜敗の連戦の中核をなした。後者、花園での初戦の後半、敵陣ラインアウト付近でPを得ると、ジャパンは速攻展開、6番の井沢義明は、そこから教科書通り、いや、教則本では追いつかぬほど見事なサポート(そのころの国内用語ではフォロー)を実行、グラウンドの右端から左端までピタリとボールに吸いついてナンバー8村田義弘のトライを引き出した。手の指の先が芝にするような低い姿勢は途中に起きるあらゆる事態に対応できた。
この北海道・函館生まれのサポートの神は、またタックルの鬼であった。
本連載と縁深いスズキスポーツの鈴木次男社長は、若き日、早稲田大学の井沢義明を当時の東伏見グラウンドでよく見ていた。紅白戦、二軍の選手相手に容赦なく猛タックルの瞬間、こう感じたそうだ。「死んでしまうのでは」。ラグビー用語の「死ぬ」ではなく物理的な生命の終焉。2010年、函館の自宅に井沢さんを訪ねて、その話をすると、笑わずに言った。
「殺すつもりでタックルにいっても起き上がってくるもんだよね。人間は強いですよ」
その取材では、函館ラ・サールの高校生を前に次のごとく語った。4年前の『ラグビークリニック』誌で紹介したが、もういっぺんキーボードを打ちたい。そこに浮かぶのは永遠の主題だ。
「いまから三十数年前、縁あって、少しの期間だけラ・サールを教えたことがあります。当時のキャプテンとよく話し合いました。いつもキャプテンシーの価値を伝えていた。最近こそワイヤレスを使ってあれこれ監督が指示もするようですけど、ラグビーでは本質的には試合が始まったら監督は観客席からじっと見守り、すべてをキャプテンが判断、決定していくのだ。そこが素晴らしいのだと」
地区の決勝。2点を追うラ・サールは、終了直前、ゴールからそう遠くない位置でPを得る。
「私は狙うべきだと思った。でも彼は突っ込んだ。そして負けた。私だって勝ちたい。狙えと叫ぶべきだったのか。いや、キャプテンとの男と男の約束だ。じっと見守った。たぶん狙えば入っていました。あれは私からすれば判断ミスだ。でもキャプテンの人生にとっては判断ミスでないのです」
本当に強い人は内面に自由の魂を抱いている。矜持を自己愛の手段としない。ただ黙って、そのように生きる。
戸嶋秀夫さんもそうだった。享年59。WTBなのにトライよりステップよりタックルで声望を得た。タックルという名の意地を声荒らげずに貫いた。1985年1月3日、新日鐵釜石戦の有名な「ふたり同時タックル」は広く知られている。秋田の生まれ、余計を語らず、誇りをひけらかさず、少し不器用なように生きた。
筆者は何度かアルコールをともにしている。ざっと四半世紀前、新宿の裏町、ラグビー記者有志のたまり場のちっぽけな酒場に招いた。戸嶋さんの来店は初めてだから、約束の電話で迎えにいきます、と申し出たのに、かたくなに断る。「住所と店の名前がわかれば自分で着きますから」。「いや絶対に迷いますよ」。もちろん迷った。こない。何十分も遅れてギシギシと階段を踏む音が近づき、ワイシャツを透き通らせた汗だくの偉丈夫はやってきた。「ちょっと時間がかかりました。フフフ」。最後のフフフ、生前の戸嶋秀夫を知っている仲間なら理解していただけると思う。最大限に照れて笑って、それを文字にすると「フフフ」にしかならない。そういえば新日鐵釜石のある選手と同じ店で杯を交わそうとすると、その人も「自分で行く」と譲らず、やはり遅れた。一流のラグビー選手は他者の助けをよしとしないと学んだ。
スポーツ新聞勤務のころ、戸嶋さんに関してニュースを書いた。「東芝府中監督就任」。正式な発表はまだなかった。ある筋から聞いて、夜、本人の自宅に電話をかけた。否定はしない。はっきり認めもしない。でも誠実だからウソはつけない。携帯電話も電子メールもない時代、ラグビー取材に「チーム広報」の存在はなかった。個人と個人の関係でみんな書く。まあ「書いてもいいよ」という内容をそれとは違う表現でそこはかとなく伝えてくれたと解釈、出稿した。あとで会うと「あの時はどうも」と頭を下げられて恐縮した。少し間をおいて「フフフ」と笑ったのが忘れられない。
井沢義明さんは市立函館北高校の2年まで野球部だった。初心者同然で早稲田へ入り、3年でジャパンに呼ばれた。戸嶋秀夫さんは秋田県立金足農業高校3年の時、県決勝の終了直前に秋田工業高校に逆転された。花園を逃した悔いから就職希望を取り下げ、「もういっぺんラグビーを」と日本大学へ進んだ。周囲のふりつけでなく、自分自身を頼りに道をひらき、やがて桜のエンブレムのために体を張った。きっとラグビーの記憶は実感のみで成立している。虚勢無用のそれが理由だった。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。