コラム「友情と尊敬」

第116回「帝京と立教」 藤島 大

帝京と立教が似ていた。10月18、19日、それぞれが関東大学対抗戦の試合を戦った。帝京大学は、筑波大学のブレイクダウンでの技術と闘争心に前半は苦しみ、しかし、後半は余力を残す風格のまま縦横に走り切り、押し切った。スコアは「31-10」。立教大学は、慶應大学に挑んで、前へよく出るタックルで健闘するも、反則とミスから陣地と主導権をゆずり、後半は無得点で敗れた。こちらのスコアは「14-57」。

難敵に勝利した学生王者と今季昇格の全敗チームは、もちろん同じレベルにはない。そもそも9月13日の両校の対戦は「118-5」。現象としては「ミスマッチ」である。帝京は18トライを奪って大勝している。ではどこが似ているのか。「チームの芯」が観客や視聴者にも伝わってくる。その一点において共通する。

帝京には勝ち続けた者の確信がある。黄金期を謳歌するスタイルを表現するのに多くの単語は必要あるまい。すなわちFWで崩してBKで仕留め切る。あいたスペースにミスなくボールを運ぶ。油断を戒めて、時に臆病なほど謙虚にラグビーと向き合う。それこそが「芯」だ。

立教に結果のもたらす確信はまだない。歴史的にもそうだろう。ただ慶應戦を放送席から追って、劣勢でありながらも「自分たちはこのことはできる」という筋は見える。勝負は勝負だから「大敗にも芯が通っていた」とまではとても評価できない。ただ「自分たちのチーム、クラブの芯はここにあるはずだ」というイメージなら共有されている。スコアが開いても衰えぬタックルの意欲。臆せぬアタック。サイズの苦しさを埋めるセットプレーの工夫。何もかもうまく運んだわけではないが、しくじり、チャンスを逃がし、止め切れなくとも進む方向は見えている。そこが大切なのである。

現代のラグビーでは、あるところで拮抗が破れると、とたんに大量スコアの可能性がある。立教と上位校との試合もそうだが、タックル、タックル、タックルで抵抗、それなのにボールを奪えないと、防御が前がかりになった分、短時間でトライを許してしまう。昔のルールは、倒された側がすぐボールを放さなくてはならなかったので、倒す気概と技術とスタミナを身につけさえすれば(それが大変なのだけれど)、いわゆる下位校でも接戦に持ち込めた。

反対から考えると、いまのラグビーでは、得点ボードの数字は必ずしも実相を示さない。そのことをよく知っているから、覇者たる帝京は外形的完勝に気を緩めない。岩出雅之監督も流大主将も「よいチーム」であり続けようと努力をやめない。そうでありさえすれば自然に「強いチーム」となる。

立教もまた「よいチーム」である。慶應戦でも体を張る気持ちは最後まで衰えなかった。攻防の進め方の迷いもほとんど感じさせない。だからスコアの印象と別に試合が引き締まる。強いか弱いかと聞かれたら後者だろう。でも、よいかよくないかなら前者だ。

花園予選ファイナルの季節。惜しくも負けた側がまず自問すべきは「さて我々はよいチームだったのか」である。もし、そうならば、あとは目に見える具体的な差を縮めればよい。もし「よいチームになり切れていなかった」のであれば校庭での毎日の練習に問題がある。きっと目に見えないところに。

立教の両ロックの身長は177㎝と178㎝だった。クラブ全体でも180㎝に届く者はほとんどいない。それでもラインアウトの攻防に定評のある慶應を向こうに「11分の9」の獲得(Jスポーツ調べ)。ここにもよき芽は吹いている。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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