第13回「いい選手について」
藤島 大
贅沢させてもらった。ずっと明神智和だけを追ったのだ。
サッカーのJリーグ、柏レイソルの「ボランチ」。中盤の引いた位置で攻守のバランスをとる役目だ。昨年のワールドカップ日本代表の欠かせぬ一員でもあった。
前々からスタジアムで「明神だけを見続ける」計画を立てていた。いい選手だとわかっていたからだ。
1メートル73センチ、66キロ、サッカーマンとしても決して大きくはない。足も速くはない。華麗なテクニシャンでもない。なのにジャパンで26試合に出場、とりわけトルシエ前監督は「空気」みたいにそばに置き続けた。ただし明神の「いい選手ぶり」は、テレビ画面では明らかにならない。もっぱらボールのないところでこそ銀の光を放つ。つまりカメラの向かない場所で。
以下、7月26日のジュビロ磐田戦、明神ひとりを双眼鏡で追いかけての結論。本当にいい選手だ。こんな男がラグビーのジャパンにも欲しい。
素早く危機を察知して、いちばん弱いスペースを埋める。先を先を読みながらも、いよいよ突破を許しかけると、意を決してボール奪取をもくろむ。そして必ず奪ってみせる。何が起きてもあわてない。あきらめない。現実を潔く受け入れ、速やかに対応、審判の判定にも感情的にならず、優勝圏外のチームにあって最後の最後までベストを尽くした。
味方が華麗なパスを出す。チャンス、ただし相手ディフェンダーにぎりぎりさらわれると前がガラ空きだ。その瞬間、自分のパスにうっとりとして動きをやめた同僚を尻目に、明神が危ない空間へ走り込んだ。ざっと30メートル。もしパスが通れば(その確率がうんと高い)ただの徒労だ。
また、さりげなく2、3メートル先に繰り出される短いパスも、勢いはきちんと殺され、受け手の利き足を考えて角度が調整されている。つくづく見事だ。
そして本コラムを書かせてもらう者として、当然ながら、ラグビーのことを考えた。
ラグビーにおける「いい選手」について。
ラグビーの最大の魅力のひとつに「豪快と繊細の両立」がある。
象徴がコンタクトと直後のボールの処理だ。激しく当たる。倒れる。その時、自分の体よりもボールを守り、援軍が処理しやすいように「そっと」置く。とても大切な技術だ。いや技術であり意識でもある。
高校や大学のコーチを務めた際、このボールの処理に合言葉をこしらえた。
「爬虫類の産卵」。なんとなく、あの種の生物が、ひとつとして壊れないように卵を産むような感じ。
ぶつかって、ねばって、最後は産卵。そして、その仕事をどんなに息上がろうとも、厳しいタックルを浴びようとも、黙々と実行するのが「いい選手」である。意識の高い選手である。
ちなみに、膝をついた者のタックルをゆっくり受ける練習で、倒されながら断じて地面に腕をつかないのは「いい選手」の共通点だ。
余談ながら、大学のラグビー部の練習に初めて加わった1日を思い出す。先輩たちが、あたかも呪文のように「意識!」「意識!」と声を張り上げているのだ。意識。なんて、いい言葉だろう。
短いパスに愛を込める。「いい選手」を見分ける基準だ。
ロングパスは技術的に難しいから、自然に集中力が要求される。しかし、すぐ隣の仲間へのそれは、えてして雑になりがちだ。受けやすい角度に愛を込めたパス。30センチの距離にも「意識」を。最近では、試合前のウォームアップでのグリッド練習でチーム力はつかめる。あの短いパスを、走る向きを考慮して優しく放る選手が多ければ、意識の高いチームである。ついでに記せば、対戦相手の選手が、シャトルランのターンで地面に手をついていたら、かなりの警戒を要するだろう。
これまた余談。高校のコーチ時代、いちどジャパンのSH堀越正巳(敬称略します)が臨時の指導を引き受けてくれた。早稲田-神戸製鋼で時代を築いたパスの名手は言った。「1年生を教えさせてください」。ちょっと前に入部の初心者だ。堀越のコーチングはこうだった。
「とってくださーい」。とってくださーいと声を出してパスを投げなさい。その気持ちがいちばん大切だ。
ジャパンの小さな9番は世界的な観点からも「いい選手」だった。
遠くの出来事に瞬時に反応する。本当に「いい選手」はそうだ。
FBとして敵陣ラインアウトからの防御に備える。相手の投入がかすかに乱れる。ロックの指先がボールをはじく。その瞬間にすっと前へ。もう向こうにボールは出ない。わかったら、大きく前へ。同時に攻撃参加のスペースを見つける。こうしてトライは生まれる。ずっと先のラックが1ミリ動く。WTBも1ミリ動く。この意識が、いざという好機にものをいう。ふいのカウンター攻撃で自分へのパスかスローフォワードになるWTBは、その前に「ぼーっ」としていたに違いない。
表情が変わらない。これも、「いい選手」の条件だ。
ひとつの試合において。また、クラブ生活においても。
たとえば1軍での大試合と2軍の練習ゲーム、どちらに出場しても同じ顔、すなわち同じ気持ちで戦い続ける。同じ集中心、同じ激しさ、同じ冷静さで。
試合中、レフリングにいらだつのは凡人だ。笛が鳴る。現実を受け入れて粛々と速やかに次のポジションへつく。たとえばキャプテンなら、レフリーとの駆け引きにも近い意思表明は時に要求される。その任務も、感情を揺り動かさずに務めなくてはならない。先の明神のキャプテンシーはまさにそうだった。
試合や練習で、多少の負傷を抱えても、そんなことはないような表情であり続ける(医療軽視ではない。どうせできるなら…という意味)。ミスして薄ら笑いを浮かべない。きっと「いい選手」だ。
死んだボールは他人へ渡さない。生きたボールは、よりよい位置の仲間へ。「いい選手」だ。案外、その逆が多い。同時に「死に体」にならないのも重要だ。本当は届かないとわかっているのにタックルに出たふりをして死に体になる。もう役に立たないと知っていてもラックへ飛び込む。FWの突破役としてボールを受ける覚悟がないくせに、へばったからラインへ残る。「いい選手」の反対だ。
ボールのないところでの意識の高さ。頭のスイッチを切らない=終わりに始まる。一喜一憂を排す。試合中の自軍のミスを自分のチャンスだと思える(その窮地救うのが私の見せ場だ)…。すべて根底には心身のスタミナと闘争心がある。
ラグビー界の明神智和、続々と出現せよ。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。