コラム「友情と尊敬」

第15回「タウンズビル発 1」 藤島 大

熱帯の木々、海を近くに感じさせる微風、開放的なタウンズビルのデイリー・ファーマーズ・スタジアムに、少し場違いなような「妖気」が漂った。ふさわしい日本語がなかなか思い浮かばないので使わせてもらうなら、それは「スピリチュアル」な何かのようだった。

ジャパンはスコットランドをあわてさせ、しかし、11-32とスコアを譲った。
スポーツ記者の常套句風に記せば「敗れても桜は散らず」といった内容だった。
ただタックルのおかげである。

あらためて断言したい。
膝下タックルとは、つくづく日本ラグビーの財産である。
小さなハーフ団、辻高志や広瀬佳司が大男の細長い脚の下のほうを刈り取れば、ともかく倒れる。
ふたりは、いったい、なんべんタックルしたのか。試合直後の辻は「どこも痛くありません」と元気だったが、
翌朝、首を動かすのも不自由そうだった。

現場の指導者やキャプテンには経験がおありだろう。
しばしばスポーツ、それも団体競技、ことにラグビーにおいては、どん底から這い上がるときのエネルギーがいちばん強い。

かの偉大なる新日鉄釜石は、そのことを熟知してチームづくりを行っていたのだと聞いた。
秋にいったん調子を落として、冬本番、そこから駆け上がる活力をトーナメントの連戦にぶつけるのだ。

タウンズビルのジャパンも、また、どん底→上昇の線を、ちょうど標的の試合に重ねることができた。
おそらく計画に沿ったチーム構築の成果ではない。大敗、チーム内のぎくしゃく、そうした諸々から脱出せんと誠実にもがき、ワールドカップの雰囲気に触れ、代表としての使命感がわきあがり、そこに格の高いシニア・プレイヤーの経験が合わさって、タックルまたタックルの妖気はかもされた。

実はチームの緻密な戦法・戦術は未完成に思える。
開始のキックオフを受けた直後のアタックが未整備だったのは象徴だ。健闘に映るラインアウトも、スコットランドがジャパンの方法をさほど研究していなかったわりには、ままならなかった。
ラックの球出しでの「ジャパンの方法」は突き詰められておらず、スコットランドの意外に低く激しく球にかぶさるような接触にコントロールは乱れがちだった。

すみません。報道従事者の悪癖で、すぐにアラをさがしてしまう。
もちろんジャパンの勇士の大奮闘は事実だ。タウンズビルの夜の街で、なんども「よくやった」と声をかけられた。酒場で背中を丸めずにすんだ。素直にうれしいものだ。

スコットランドの重鎮ロック、スコット・マレイは語っている。
「ジャパンのディフェンスはエクセレント。称賛に値する」(スコッツマン紙)

つまり、ジャパンは、急速な活力の結束で、チーム構築の遅れを、ひとまずは覆ってみせた。個々の潜在力が、一定の域に達しているなら、ラグビーではそういうことはありうる。
個人的にジャパンのマン・オブ・ザ・マッチ、フランカー大久保直弥の体を張って張りまくる厳しさ、たくましさ、どうしても知性と書きたくなる集中心、それらの代表する「戦う姿勢」はチーム全体に広がっていた。
そのことは絶対に評価を受けるべきだ。

ただし、これもコーチ経験のある方にはわかるだろうが、このスコットランド戦のようなゲームのあとは、必ずしもチームの歩みが順調ではなかっただけに、えてして各選手の受け止め方にぱらつきが発生する。
あの状態からよくここまでできた。いや勝てなくては意味がない。いつもどおりさ。そういうように個々の評価に幅ができる。

放置したまま次の難敵に対すると、へたをすれば大崩しかねない。高校生のトーナメントでよくある事態だ。
ここは指導者が、18日のフランス戦までに、「満足・不満・その混合」(過去)から「次はこれで勝負するんだ」(未来)の向きへ、くっきりとイメージを統一することが重要である。

それを期待して、いまからジャパンの練習(10月14日)を見に行こう。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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