コラム「友情と尊敬」

第17回「俺たちに明日はない」 藤島 大

ワールドカップの決勝には緊張と興奮と気高さがあった。
最後の最後の局面で完璧な判断を重ねたイングランドは覇者にふさわしかった。
そして、コンタクトとセットで劣勢に陥りながら、反則に細心の注意を払い(ほぼ)守り切ったワラビーズの底力は、ほとんど不気味なほどだった。

余談ながら、前ウェールズ代表監督のグラハム・ヘンリーが、かつて以下のような内容を述べている。
「オーストラリアは戦力でイングランドやニュージーランドを上回る必要はない」
2001年、全英/アイルランド代表ライオンズのオーストラリア遠征の指揮をとった。事前に「オーストラリアのラグビー」について分析しての見解だ。細かな技術ではなく「オーストラリア人にとってラグビーとは何か」、つまりは「オーストラリア人とは何か」を考えたのである(いいコーチはみな同じことをする)。

なぜ「上回る必要はない」のか。
まずオーストラリアが世界に冠たるスポーツ王国であることによる環境とプライド。
もうひとつ、伝統的にオーストラリアにおけるラグビーはプライベート・スクール、どちらかといえば富裕階級の学ぶ私立学校を基盤にしており、そこでは「自分を信じる」気風が培われている。だから少し戦力で劣っても、勝利を得られる。事実かはともかく、そう語っているのである。

大会前も大会が始まってからも、よれよれと落ち着かなかったワラビーズは、準決勝のオールブラックス戦で、なるほど「自分を信じる」凄みを見せた。焦点を絞り切り、迷わずプランを遂行する。あれは、中学であれ高校であれクラブであれ、ともかくレベルを超えて参考となる闘争だった。

決勝のワラビーズは見事だった。しかし本当に勝てる雰囲気をかもすにはいたらなかった。
イングランドも、また、揺るがぬ自信を秘めていた。地力は確かだ。
キック、ディフェンス、栄養士、ビデオ分析、シェフ…などなど専属のスペシャリストを抱え、スコッドのメンバーは長期にわたって行動をともにしてきた。大国イングランドにふさわしい経済力と選手層に支えられ、ベテランを揃えて過去の苦い経験をもっぱら教訓としえた。まさにプロフェッショナルだった。

スコットランドのイアン・マクギーカン監督は大会前に語った。
「イングランドが本気になって万事をオーガナイズしたら手がつけられないと以前から指摘してきた。とうとう彼らはそれをやった」

1995年のオープン化(プロ容認)からそれなりの歳月が過ぎ、より深いプロフェッショナリズムを実践できたイングランドが笑った。小国ニュージーランドの予想を裏切る惨めな敗退も、経済規模を理由に、また当然の結果とこじつけられなくもない。

さて大会期間中に滞在したタウンズビルやメルボルンやシドニーでは、実は、とても数多くのアマチュアのゲームに接した。ケーブル・テレビが「クラシック」と称して往時のテストマッチをずっと放映したのだ。
73年、ワラビーズがトンガに敗れた(11ー16)有名な一戦も確認できた。あの敗北を機にオーストラリア協会はコーチング・システムをはじめ本格的な再建に取り組んだ。現在の隆盛の根っ子の「事件」だった。そして80年代のオールブラックスとの定期戦「ブレディスロー・カップ」などを眺めるうちに、とても感動を覚えたのだった。一言で表せばこうなる。

「この男ども、なんと勇敢な」

アマチュア時代である。職業はさまざまだ。勝とうが負けようが1ドルももらえはしない。
現在の選手より胸板は薄い。太ももも細い。単純なスピードも劣る(一瞬の反応速度は変わらない)。
しかし、ともかく勇敢なのだ。無謀にも近い。細身のフルバックがハイパントに身を挺する。危ない。ついテレビに向かって叫びたくなる。なんと表現するのか「後先を考えない」感じだ。

ワールドカップは存在しておらず、テストマッチそのものに価値があった。そもそも国際試合の機会はまれである。「この一戦」がすべてだった。いま、ただただ全身全霊を尽くす。俺たちに明日はない。そんな迫力。報酬とは無縁、母国のすべてのラグビー人を代表する誇りと名誉と責任感が「危ない」を連続させる。ついでながらタックル、パンチの応酬、いまなら黄色いカードの連発である。それでいて終了の笛が鳴ると、友情とビールの文化は生きていた。

今回のワールドカップ決勝は、もちろん「最初で最後」のような緊迫に包まれた。あの瞬間、金銭に思いをめぐらせた者はおるまい。アマチュア時代のテストマッチは、それと同じだった。準決勝のオールブラックス敗北を現場の実況席から凝視して、つい浮かんだのは、アマ時代の黒衣の原初的な迫力である。難しい理論はない。合理的戦術とも遠そうだ。しかし眼前のラック、ひとつのタックル、ハイパントの競り合いに明日なき覚悟で臨む。そんな美しさがあった。いまプロ化した後進たちは、ひとりで広いスペースを鍛えぬいた体力で守るディフェンスをこなすうち、一撃のタックルの威力を忘れた。あのオールブラックスが(個人差はあるけれど)腕から先にタックルを仕掛け、自分の体からペチャンと芝に倒れる。

原点へ帰れ。それでは単純に過ぎる。プロの厳しさ、緻密さ、肉体の強大さは当然だ。
ただラグビーという競技の本質は、精神的にも技術的にも、次の契約金や保障や興行を考えずに、あるいは次や次の次のディフェンスの網を張るより先に、「いまここ」に全力を尽くす態度を求める気がしてならない。

イラクに散った外務省の奥克彦さんはラグビーを愛していました。ラグビーの大義を生きているような人でした。酒を酌み交わして楕円球をめぐるあれこれを語った幾つかの夜が忘れられません。残念です。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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