第160回「猫の努力」
藤島 大
努力。「つとめること。精を出すこと。ほねをおること」。便利な言葉だ。ちょっと書くのをためらう。でも努力は尊い。ラグビーは努力に冷たくしない。
一昨年死去の元日本代表監督、日比野弘(敬称略、以下同)は色紙に言葉を求められるとこう記した。
「努力は運を支配する」
常に準備を怠らず、誠実に他者と接した人には原点があった。
1954年12月5日。東京・早稲田の「高田牧舎」。日露戦争のさなかに創業の古い洋食店は早稲田大学ラグビー部のいわば非公式の「クラブハウス」であった。この日、赤黒ジャージィは秩父宮ラグビー場における強雨の早明戦に8-14で敗れ、ここで残念会が行われた。
都立大泉高校からの新人、日比野は俊足を評価されWTBとして出場を果たし、監督の大西鐵之祐のスピーチを聞いた。
「今日は、精一杯やった。でもお前たちの中で今年一年、やれるだけやったと言い切れるものはいるか」(『ラグビー 荒ぶる魂』大西鐵之祐著、岩波新書)
母校の監督を務めて日本一、ジャパンを率いれば敵地でウェールズを追い詰めた。敬われ愛され親しまれた後年の指導者の感受性が震えた。以後の歩みは定まった。
大西監督もまた初心者で入部の新人時代、やはり高田牧舎で、早明戦に負けた先輩たちが「一年生のところまでやってきて謝る」ような「赤裸々な人間の集団」に感銘を受ける。あの瞬間の「純粋感性」が「その後の僕の生き方を決定した」。前掲書にそうある。
日比野は大学1年の若さで知った。晴れの舞台の早明戦に出場すれば誰だって一所懸命に戦う。しかし春からのひとつずつの練習に同じ気持ちであれたのか。そこが勝敗を決する。努力は運を支配するのだ。
高校でも大学でも春は努力の季節である。チームの? いや、それより前に個人の。あなたがフッカーならラインアウトの投入の精度を磨く。SHであれば狙った「点」に落とすキックをわがものとする。
努力の理想は「猫」だ。これ、昔、著名なサッカー記者に教えてもらった。猫がゆらゆら揺れる玩具と戯れる。飛びついては飽きずにまた飛びつく。
「あれ、猫は遊びとわかってるわね。でも、おもしろいから、いつまでもやめない。そういう、おもしろがる年齢の間に蹴るということを身につけてしまわなくては」(賀川浩)
遊びが努力を包んでしまう。しめたものだ。ひとつの例がある。『ラグビーマガジン』1978年2月号の「昭和52年度全国公式戦個人記録発表」。強豪の名手にまざり、大学部門のトライ後ゴール成功数の4位に「原-名工大-CTB-39」と記載されている。
原守男。大阪府立八尾高校から国立の名古屋工業大学へ進み、知る人ぞ知る名キッカーで鳴らした。のちにスイッチ付きコンセントやリモコン発見器やスリ鉢いらずの「ごますり革命」など発明家としても名を成す理科系部員は本当に外さなかった。学窓を出て勤めた企業で鹿児島に一時赴任、当地の国分クラブでも決めに決めた。部史にこうある。
「プレースキックの名手で十割近い確率を誇った」。当時はFB、背番号15は「戦功を賞して」長く欠番となった。
さて原守男はどのように正確なキックを身体化したのか。5年前に本人に教えられた内容はこうだ。小学2、3、4年。実家のガレージのブロックの壁に印を打ち、そこをめがけて、ひたすらサッカーの球を蹴った。病弱を案じた親が各種ボールを用意してくれたので自然に戯れるようになった。
「ちょっと計算してみたら計2000時間は蹴ってる」
中学でサッカー部。その経験でイングランドのゴールキーパーのプレースキックを参考にフォームをこしらえる。「くの字に曲がる助走は雨などグラウンドの状態の影響を受けやすいので」なるだけまっすぐ歩を運び、右足のサイドを用いて楕円球をとらえた。
遊んで身につけ、おのれの頭でつくりあげた技術の根は深く太い。努力を努力と感じぬまま細胞に刻まれる。これは時代を超えて現在のあらゆるカテゴリーのラグビー選手にもあてはまるはずだ。
高校や大学の現役は猫になれるのか。つまり「小学4年の夢中のキック」と同じように個人練習を延々と繰り返せるか。微妙かもしれない。しかし理性の力を借りれば自分なりの方法で近づける。「努力を努力とせず」の実現のために努力するのだ。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。