第167回「石巻・那覇・函館」
藤島 大
数日前。東京の代々木駅改札で長野県のラグビー関係者と会った。「どこで待ち合せを」。「代々木では」。「いいですね、スズキスポーツもありますし」。
あとで聞くと、早く着いて、なんとなく駅前ビル2階の「スズキ」の店舗を見上げたそうだ。「懐かしいですね」。かつて東京の大学のラグビー部でラインアウトを跳んだ人は言った。
これより前の5月6日。宮城の石巻にいた。リーグワンのディビジョン2、浦安D-RocksとNECグリーンロケッツ東葛の順位決定戦がこの地であった。試合前、会場のセイホパーク石巻の外をうろうろ歩いていたら、当地のスポーツ店のブースが出ていた。
なんとラグビー用品のショップらしい。ここにも専門店があるんだ。うれしかった。「石巻の土中にはスクラムやタックルの根が張っている」と素直に感じた。
スタジアムの入口の右奥に簡素なガラスの棚があった。地元の育んだジャパン、富永栄喜と伊藤隆の代表キャップが飾られている。ともに石巻高校より早稲田大学へ進み、それぞれ1958年度と1977年度のキャプテンを務めた。どちらもポジションはFW第3列である。
敬称略で富永は優れた統率で全国制覇を遂げる。卒業後にリコーの一員となる伊藤は痩身軽量ながら献身と機動力で全国の「小さなフランカー」の憧憬の対象となった。1980年10月19日、トゥールーズでフランス代表に3-23と善戦する。前半は0-8。桜のジャージィの執拗なタックルは敵地において大いに拍手を浴びた。
「自己の限界を超えているとしか思えぬプレーの数々を見せてもらった」
『日本ラグビー全史』(日比野弘編著)がフランス協会会長の試合後のスピーチを当時の報道から引いている。伊藤隆の足首を刈るような一撃もきっと感銘を与えた。
1980年代は石巻工業高校、石巻高校、宮城水産高校が花園行きの切符を争った。宮城の高校ラグビーとはそのまま石巻の各校を示す勢いがあった。やがて仙台育英高校が力をつけて構図は変わる。震災がむごく襲い、コの字で始まる疫病もやってきて、それでも専門ショップは踏ん張り、元ジャパンのモノクロの写真がキャップとともに棚に残される。グラウンドの強い風がなんだか心地よかった。
昔、沖縄の那覇にラグビー専門店が存在した。市内の高校で楕円球を追いかけた若き店主の一言がよかった。
「修学旅行の高校のラグビー部員が仲間と歩いて、ここに入ってくる。すると、こうつぶやくのが聞こえるんです」
いわく。「うちの県にはないのに沖縄はあるんだな」。それがなによりの楽しみだと笑った。後年に閉業。レジを無防備にも開けっ放しのまま無人となる店を出て「隣の焼き鳥屋でビールでも」と誘ってくれた気のよい主人、いまはどうしているだろう。
シューズ。スパイク。日本のスポーツライターはそう表わす。英語圏ではブーツだ。なるほど。あれは確かにブーツだった。
函館ラ・サール高校のグラウンド。フロントローの好漢Mが、スズキのハイカットの「スパイク」を履いている。くるぶしの上まで皮革の覆う長靴(ブーツ)の型だ。なんというのか「わたしの世界はスクラム」と宣言するような形状である。
1980年代なら珍しくない。しかし、このとき2010年代の後半、ティーンエイジャーがなぜこんな特別注文かもしれぬ旧タイプを。セコムラガッツの名物にして名プロップ、山賀敦之が最後の愛用者ではなかったのか。
おそるおそるMに聞いた。いったい、どこでそいつを?「あっ、インターネットで見つけまして、これだと」。21世紀のテクノロジーは北海道の少年に20世紀式のいかしたブーツを届けた。
ハイカットのMは最終学年の花園予選のファイナル、転がる球にとっさに身を投げ出して確保、それが勝利をもたらした。国立大学でもラグビー部に入り、理工学部の大学院でひたひたと研究を続ける。実直なあいつのことだから、すっかり出番の減った青いソールの一足はきれいに磨き上げられているだろう。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。