第31回「そしてラグビーは続く」
藤島 大
どうしてもジャパンの惨状に気分は滅入った。それでも国内シーズンにはラグビーの美徳のような感激はやはりあった。
大阪の予選決勝で薄氷も薄氷の勝利、からくも花園へやってきた啓光学園のいつものごときしぶとさ、勝負どころをつかむ能力の標準の高さよ。盛岡工業、高鍋、名護、八幡工業…途中で消えた公立校にも語られるべき攻守は存在した。
立教大学が青山学院を破った試合には「勝負魂と信念」が宿っていた。関東学院の法政との大学選手権準決勝は、いつでも「打倒・伝統校」に燃えたクラブが、いつしか培われた「伝統」の力をふりしぼった大バトルだった。
かつての悲壮感の消えた早稲田は、日本選手権でトヨタ自動車ヴェルブリッツに挑み、痛々しいほどのタックルを続けて、合理と非合理をともに追い求める姿勢の健在を示した。
「凄かったです。頭使っているなあと。勉強になりました」。本当は早稲田の学生のほうにいろいろと勉強させたはずの元日本代表プロップ豊山昌彦はさわやかだった。そして愛すべき背番号3は早稲田が何度も試みたドロップゴールについて言った。
「僕が言うのも変なんですけど、ちょっともったいなかったかなと。回されたほうが嫌でしたね」
早稲田を向こうに知恵とガッツの塊で対抗したタマリバのサラリーマンは、敗北のあとの残念会でそれぞれが心境を語った。商社勤務やテレビ局報道マンなど不規則な日常から鍛錬の時間を捻出した勇士は口々に言った。
「このトシになってこんな感激を味わえて幸せです」
やけに声が震えていた。
東芝府中ブレイブルーパスの鋼鉄のハートを持つキャプテン、冨岡鉄平にトップリーグ制覇のあとインタビューできた(『スポーツ・ヤア!』)。ラグビーでは無名に近い中村三陽高校から1年の浪人期間を経て、福岡工業大学へ。経歴に華やかなところ少ない男は言った。
「ここまでくると出身大学や高校は関係ありません。雑草でも輝く人間がいる。エリート街道を走ってきても謙虚な人間もいる。僕も、いまではエリートに負けたくない…なんて思わなくなりました。リーダーになれる責任感を持った人間がチームに何人もいることが大切なんです」
シーズンが進み、接戦となればなるほど「ラグビーの根源」は問われた。
早稲田の清宮克幸監督との問答から引くなら「タックルした選手が、すぐに起きて、また走る。プレーを続ける。そんな場面が随所にある。それだけで、いいチームですよ」(『ナンバー』)。
早稲田の名物男、体重115㌔の右プロップ伊藤雄太はスクラム専任のように見えて、よくよく観察すると「転んで起きて広がる」動きが素早い。実によく鍛えられており、大学王者の強さはユーモラスなような戻りの動作に凝縮されていた。
迷いのないパスにトップスピードで走り込む。攻撃の成否を隔てるのはそこだった。
東芝府中のバックスが調子のよいときは、まさにそうだ。確信に満ちたパスを投げる。防御の壁が視界にあろうとも全速力でそのパスを受ける。これができているチームは理屈とは別に強い。世界中の少年少女がコーチに教わる「思い切りパスをもらいなさい」は真理なのである。
先日、沖縄の名護をプロ野球キャンプの取材で訪ねた。ある晩、地元のラグビー関係者と泡盛を酌み交わす楽しい機会を得た。全国的には名も無きラグビーの虫の逸話はどれも愉快で、そしてホロリとさせられた。創成期の普及に尽力した数名の男たちの情熱は現在も継承されている。家業のかたわら、ひとりでも多くの「ラグビー選手」を発掘せんと中学の校庭を訪ね回る。余暇のすべてを少年少女の指導にあてる。元不良少年はラグビーと出会い、生まれ変わり、やがて実業で成功を収め、いま高校ラグビー部の卒業生を自分の会社に就職させている。
申し訳ないけれど、いつもの結論を書かねばならない。
ジャパンよジャパンであれ。たったいまから最良の知性と最大の情熱を携えたスタッフを組み、最高のメンバーを集め育て、本物の涙つきまとう勝負に打って出ろ。
ジャパンがふにゃふにゃのまま「構造改革」を試みても、なにかと歪む。まずジャパンからだ。列島のあちこちに隠れている「称賛されること少なき無私の努力」を裏切るな。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。