第35回「ただキャプテンのみが」
藤島 大
説教ではない。説得でもない。問題提起とも違う。
これは、ただの常識である。空気があるから人間が生きていけるというような。
先日、早稲田大学と関東学院大学の春の試合を見た。
横浜駅からのタクシー運転手氏が「きょうは何があるんですか。さっきから人がすごい」と驚いた。
つまり三ツ沢競技場は盛況だった。両校の選手の試合前の表情も真冬の国立競技場と大差のないほど引き締まり、ウォームアップの怒声は遠くまで響いた。
早明、早法、明同…。いまや関早こそは好敵手の激突の象徴である。だから試合は白熱する。それは当然だ。しかし、結果、どうにもレフェリーへの敬意、いや、常識を欠くふるまいは続いた。どちらの選手(もちろん全員ではない)も笛に納得しないと、つい声を荒げる。そこまでいかなくとも不満の声はとげとげしくなる。Jスポーツの解説をしたので集音マイクから耳に飛び込んでくるのだ。あげく、ある選手が興奮のあまり胸というか腹というか上体を突き出してレフェリーにぶつかった。それはラグビーというスポーツにおいては絶対にあってはならない行為だった。
レフェリーに肉体的接触を仕掛ける。簡単に書けば、小突く、押す、殴る。それは退場はもちろん、さらに重い処罰の対象である。
いささか旧聞だが、1972年12月14日、秩父宮ラグビー場での全国自衛隊大会で、中部自衛隊チームの当時19歳の選手が、判定への不満から試合後にレフェリーへ殴りかかろうとした。殴ったのでない。その前にチームの同僚が止めた。それでも「事件」は新聞を騒がせ、管轄の関西協会はチームに1年、当事者の選手には2年間の活動停止処分を課した。結局、クラブはそのまま解散した。判断の是非はともかく、それくらい深刻に受け止められた。
レフェリーに手を出す(それに近い行為を働く)のは、いかにも論外だ。ここで述べたいのは、レフェリーに愚痴をこぼすのさえ許されないというラグビーの常識である。以前にも本コラムに触れたけれど、異議申し立てはキャプテンにのみ認められる。それも、きわめて紳士的な言葉遣いと態度をともなわなくてはならない。
Jスポーツで海外の一級試合に接すると、レフェリーの携帯マイクを通して聞こえるのは、ほとんど選手間の指示の音だけだ。つい微妙な判定に選手が不満を抱いたとする。解釈の違いをレフェリーに問うたとする。ほんの一瞬だけ感情的になってもすぐに小声に戻り、それも、たいがい語尾はフェイドアウトする。
ひとりキャプテンが敬意を忘れぬ口調で判定に疑問を呈する。それが受け入れられる例はない。しかし、のちのレフェリーの解釈や判断の参考にはなるかもしれない。キャプテンが話すのは、そのためである。
いまの判定に文句をつけるのが目的ではない。勝つためにベストを尽くす、その一環としてのギリギリの行為。だからこそ冷静でなくてはならない。
キャプテンは自分以外の人間がレフェリーにからむのを、自身への侮辱と受け止めるべきだ。余談めくが、ぺナルティーを得た時、キャプテンでない選手が「狙え」とゴールボストを指すチームは未熟である。みな瞬時にキャプテンのほうを見るチームは相手にしてコワイ。
さてキャプテンといえば、箕内拓郎である。ジャパンの誇るべきリーダー。
先日、スポーツ誌『スポーツ・ヤア!』(角川書店)のためのインタビューがかなった。強化の遅れるジャパンの問題を前線で体を張る立場から訴えた。まさにキャプテンだからこそ語った。うわべの感情的批判でなく、無難なコメントでもない。切実な発言は印象に残った。たとえば次のような。
「2011年W杯の成功に貢献するためには、あすの試合、きょうの練習が大切なんです」
自分の関わった仕事を告知するのはフェアでないかもしれない。でも箕内キャプテンの言葉は重かった。6月30日発売の雑誌に目を通してみてください。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。