第173回「浜通りにラグビーを見た。」
藤島 大
いわき駅からJヴィレッジ駅まで所要30分。常磐線の車窓に海が現れたり消えたりする。薄い紺の広がりが美しい。14年前の3月11日。静けさが失せた。太い波はたちまち束となり、延々と肩を組んで、大蛇の鎌首のごとくせり上がった。
福島県双葉郡広野町のJヴィレッジスタジアム。3月1日。リーグワンの浦安D-Rocksとトヨタヴェルブリッツがぶつかる。いま、空気はこれでもかと澄んでいる。だがあの日あのとき、福島第一原子力発電所が悲鳴を上げたら、なんの落ち度もない市民は避難を強いられた。
東日本大震災は東京も揺さぶった。机で締め切りの原稿と格闘していた。ジャケット写真が好きで棚に飾ったCD、ボブ・ディランの『フリーホイーリン』が跳ねるみたいに落ちた。ただごとではない。なのに、白状するほかないのだけれど、さして気にとめなかった。かまわずボクサーのインタビュー記事を書き続けた。
何時間か過ぎて、なんとか仕事を終え、気仙沼の港のあたりが燃えている映像がテレビ画面に流れ、こんなに大変なのか、と、やっと気づいた。
反省した。「歳月を重ねても震災被害についての想像をやめない」と自分に言い聞かせた。それでも繰り返しの日常、うっかり忘却の倉庫にしまわれる。
だから釜石や今回なら福島の浜通りへの出張はありがたい。鈍感の頭と胸にもその土地の心や情は浮かぶ。旅人の感傷に過ぎないが、忘れてしまうよりはましだ。そう信じている。
2月8日にも同会場でリコーブラックラムズ東京と静岡ブルーレヴズが対戦している。前夜、旅装を解き、いわき駅近くのアイリッシュ酒場へ飛び込んでみた。40歳くらいの隣のネクタイ姿の男性が「酔って財布を落とした」顚末を主人に語った。
「マイナンバーカード、なくして、再発行になにが必要か知ってます? マイナンバーカードですよ」
口に流し込む黒ビールをつい噴いてしまった。みんなも笑っている。愉快な時間だ。されど、ここのカウンター席の老若男女だって、居住地域や通学圏や勤務先による程度はさまざまでも、被災をめぐるなんらかの悲しみと無縁ではあるまい。
いわきの夜。ひとりの丈夫なFWの像がよみがえった。高校のころに国立競技場のバック席のずいぶん上から見た。
敬称略(以下同)で坂本満。日本代表の背番号6。1978年9月23日のフランス代表戦の頼もしい姿である。16-55の黒星も終盤、鋭利にして正確なライン攻撃でジャパンは3トライをたたみかけて、スタジアムはわいた。13番、アニマルこと藤原優(丸紅)がエンジン搭載の獣のように駆けた。「両チームの30人の中でいちばんすごかったな」。帰りの電車で友と話した。
フランカー坂本の長身もよく覚えている。記録を確かめたら「身長186㎝・体重86kg」。当時の第3列では際立っている。所属は東京三洋。埼玉パナソニックワイルドナイツの前身である。初優勝よりずっと前の大東文化大学を卒業。そして、ここが大切なのだが、出身高校は福島県立勿来工業なのだった。
勿と来をつなげて「なこそ」と迷わず読めるのはラグビーのおかげである。2022年度には通算6度目の花園行きを果たす。自動的に「フランス戦の坂本の母校、まだ頑張ってるな」と反応してしまった。
県立磐城高校もかつて日本代表を育てた。古く1956年の対オーストラリア学生選抜で初キャップのロック、真野克宏である。現役時のサイズは「176㎝・80kg」。あの時代の国内では立派な体格を誇った。明治大学ートヨタ自工(現・ヴェルブリッツ)と歩んだ。
2021年度に18度目の全国大会出場をかなえた同校の同窓では、明治大学の14番、1985年度学生日本一(慶應と両校)の鵜沼俊夫が才能の集うクラブにあって奮闘した。
好敵手、早稲田大学のWTB、1997年度卒業の吉成俊介の滑るようなランや静かなたたずまいもずっと忘れられない。
リーグワン現役、日本製鉄釜石シーウェイブスの小野航大(東海大学)はおもに11番を持ち場とする。主将も務めた32歳の人格者は勿来ラグビースクールで楕円球と出合ったはずだ。
県立小名浜水産(現・いわき海星)高校は1978年度の花園において諫早農業高校と新潟工業高校を退けてベスト8へ進んだ。県立平工業高校も1957年度の初出場から2023年度まで計14度も聖地の芝を踏んでいる(通算9勝)。ともに「いわきのラグビー」の土壌をふくよかにさせた。
2月28日午後。いわき駅改札を出て、迷わず、ほど近くの「そば八」で立ったままのラブリーな一杯(なす天ぷら)をすすり、ついでに散歩するうちに感じのよい酒販店が現れた。磁石に吸いつくように店内へ。「燗でも冷やもおいしい福島の四合瓶を」。女性スタッフが親切に教えてくれる。
日が落ちて、「マイナンバーカード」のアイリッシュ酒場再訪。マスターに「素晴らしい酒屋さんが」と告げた。すると。
「あそこの主人、磐城高校のラグビー部のFWのはずです。たぶん花園にも出た」
そういえば、ひとり、穏やかなのに、ちょいと殺気をたたえる人物が日本酒の林を背に立っていた。いや、これは、あとで都合よく整えた記憶の幻かな。だとしても得した気分だ。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。