第43回「ルーズでないソックス」
藤島 大
あなたのチームはどうだろうか。練習中、すべての選手が、ストッキング(ソックス)を上げているか。それとも下げたまま、あるいは着用せず、まるで素足にスパイクを履くようなスタイルでも許されているか。
と、ここまで書いて、机の上の東京新聞(中日新聞)水曜夕刊、大住良之さんの名物コラム「サッカーの話をしよう」を読んだら、ちょうど「ソックス問題」を取り上げていた。
それによると、サッカーではルール第4条で着用が明記され、90年のルール改正で、すね当てが義務付けられて「ストッキングによって完全に覆われている」という条件がついたことで、おろしたままのプレーはできなくなった。たまに足首まで下げている選手がいたら、それは「役立つか不明なほど小さなすね当てを着用し、それきちんとストッキングで覆っている」。ま、ルールの抜け穴のようなものだ。
ラグビーではルールに「ストッキングを上げるべし」とは書いてない。「通達」という名の半強制や大会ごとの規定ではありえても公式なルールとは別だ。しかし、試合になれば、みな上げている。どうして? 審判でもコーチでも、もしかしたら協会の偉い人でも、ストッキングを上げさせる側には、精神的な意味を持たせる意図があるかもしれない。
しかし、ストッキングを上げる根本の理由は「いらぬ負傷の防止」にあると個人的には考える。すね当てはなくとも、あのストッキングの厚みで、ちょっとした切り傷を防げる。偶然蹴られたダメージもわずかにせよ軽減される。あるトレーナーの話では「ストッキングを上げることは肉離れの予防にもなる」そうである。
自分がケガするのだからいいじゃないか。それは間違いだ。仲間に迷惑をかける。それも誤りである。なにより相手に悪い。また観客にも迷惑なのだ。
すねを蹴られて、うっすらとでも出血を伴えば、治療は義務付けられている。たったストッキングを上げることで防げた微細なケガは確かにあった。血がにじんで試合が中断したら、この決戦のために血のにじむ鍛錬を続けてきた相手に失礼だ。観客も、せっかくの興をそがれる。大会運営にだって余計な手間はかかるはずだ。無用の切り傷は被害でなく罪なのである。
さて練習ではどうするか。こういう問題は難しい。チームのカルチャーとして、またコーチの個性や信念として「ストッキングをいちいち上げろ」と口うるさくするのを好まない…という例もあるだろう。選手に、あえて流行を追わせることで雰囲気をよくしたいという狙いもあるかもしれない。
ただ、勝負のリアリズムからすれば「実際の試合では上げるのに練習で下げる」のは愚行だ。それは多くの選手が忌み嫌うはずの「練習のための練習」にほかならない。また心構えとして、みずから「負傷のリスク」をふくらませるのは賢明でなく、プロならずとも意識は低い。プロならばなおさらだ。
いつかジャパンの名SH堀越正巳(現・立正大学監督)が、高校生にパスを教える際に言った。
「なんのためにチームで同じ色のストッキングを履くと思う?」
ラックからパスを投げる。いちいち投げる先に顔を向けなくとも、横目でとらえたストッキングの色でわかる。スパイクの種類で誰かも判別できる。名手の教えには説得力があった。みんながクルブシむき出しのスパイクでは、ついハーフのパスの精度も狂うだろう。
まあ流行なんて虚しいもので、女子高校生のとてもルーズなソックスや男子高校生の不自然に剃られたマユ毛のように、いつかは「恥ずかしさの記録」としてのみ振り返られる。ラグビーでも、かつてのダブダブの長いパンツは消えたし、頭にタオルを巻きつける練習スタイルを「いいかも」と思う者は少数派に転落した。裸足もどきにスパイクも同じ運命をたどる。
目くじらを立てるようなことでもない。ただし、これだけは言いたい。
たとえば大学の練習を眺める。ほぼ全員が「ストッキングを下げる」か「ストッキングはなし」なのに、いかにも若い顔の部員だけが律儀にストッキングを上げている。1年生とすぐわかった。こういうクラブは少しみっともない。「ストッキングいらず」がそんなにラグビーをするのにいいものなら、いちばん不慣れな新人にこそ奨励すべきではないか。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。